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執事の話

教える者の責任

身に覚えのありそうな物語がありましたので紹介します。付け加える言葉もありませんが、お話の原題は「Responsibility of a Teacher or Pastor」です。
Church

「牧師や教師の責任」

私が彼に初めて会ったのは水曜日、教会の建物の中だった。
彼は70代半ばで、薄い白髪で小奇麗な茶色のスーツを着ていた。
私は過去に、何度も彼を招待していた。
何人もの他のクリスチャンの友人が彼に、神について話し、福音を伝えようとした。
彼はとても尊敬されていて、正直者で、クリスチャンが持つべき多くの良い性格を持ち合わせていた。
しかし、彼は決してキリストを信仰することなく、教会の門をくぐることさえなかった。
「今まで礼拝に参加したことはありますか?」
私は数年前に彼に尋ねた。私たちはちょうど楽しいひと時を終えたところだった。
彼はためらった。それから少し苦笑いしながら私に50年前の幼少のころの経験を話してくれた。
彼は、貧しい大所帯の家庭に生まれた多くの子供たちのうちの一人だった。
彼の両親は食事を賄うだけでもやっとで、家具や衣服にはほとんどお金がかけられなかった。
彼が10歳になろうとするとき、近所の数人が、彼を一緒に賛美しようと招待した。
日曜学校はとても素晴らしかった。彼はこれまでに一度もそのような歌やお話を聞いたことがなかった。
彼は一度も誰かが聖書を拝読するのを聞いたことがなかった。授業が終わってから、先生は彼をそばに呼んで言った。
「坊や、もう二度と今日みたいな恰好で来ちゃだめよ。私たちは神の家に入るとき、最高の姿を見せたいのだから。」
彼は、ボロで、つぎはぎもされていない恰好で、立ち尽くしていた。それから、彼の汚れた裸足を見ながら、そっと答えた。
「はい。もう二度と来ません。」
「それから、もう二度と行ってない。」彼は突如、会話を終わらせた。
彼をそこまで頑くなにしたのは、他にも要因はあったのだろうが、この経験は彼の心に明らかに苦い経験となっていた。
日曜学校の先生はよかれと思って言ったのだろう。でも、彼女は本当にキリストの愛を理解していたのだろうか?
彼女はヤコブの手紙第2章にある教育法を学んで受け入れたのだろうか?(※行いのない信仰は死んだもの)
もし、彼女がその汚い、ボロの小さな少年をその腕に抱きしめて、
「坊や、ここに来てくれて本当に嬉しいわ、キリストについてもっと聞くために毎回来てね」と言っていたなら。
私は教師や牧師、親たちがキリストの名のもとに小さきものを受け入れなければならないと、何度も考えていた。
彼女の影響が一体どれほどまで続いたのだろうか。
私は、祈った。
子供の心の敏感なことに対して、もっと目が開かれるように。
そして、子供の外見や振舞いの先にある内に秘めた永遠な可能性を決して見逃さないようにと。
そうだ。私が彼に初めて会ったのは水曜日、教会の建物の中だった。
塵ひとつなく着飾った老紳士が棺桶に横たわっているのを見たとき、私は大昔の少年のことを考えた。
あたかも彼の声が聞こえてきそうだった。
「はい、もう二度と来ません。」
そして、私は泣いた。
‐作者不明‐

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